北欧の有名なクラシック作曲家ジャン・シベリウスの名言
ジャン・シベリウス(1865〜1957 フィンランド)という
交響曲やヴァイオリン協奏曲で有名な作曲家が残したことばが好きです。
Pay no attention
to what the critics say;
there has never been set up
a statue in honor of a critic.
(日本語訳)
評論家が言うことに耳を傾けてはいけない。
これまで評論家の銅像が建ったことがないのだから。
口が達者な人がたくさんいますね。
何を言ってもいい。言論の自由です。
でも、何を言うかが非常に重要。
内容によって人々の心に色々な変化が起こるからです。
評論家は過激なことを言ったり、否定的なことを言ったり、
中には対象人物を見下した発言をウリにしている人もいます。
みんな耳を傾けます。興味津々。
「あの評論家、次は誰に対し何を言うんだろう?」と。
そして評論家はさらにエスカレートした発言をし注目を集めていきます。
まるで自分が中心であるかのような錯覚をしていく。
本当は「評論されている側」が主役なのに。
発言を聞いてもらうことに快感を覚えるのは、人間のごく普通の感情かも知れません。
しかし、気付いた時に評論家自身が『見世物』に成っていたりします。
人に受け入れられる評論家から人を傷つける評論家、
あるいは人を不快にする評論家に変わっていることに気付いた時には批判を受ける側になっていて、
やがて中心からはずれて行き、必ずこう言うようになります。
「みんな勝手なこと言ってる・・・」
プロの評論家は評論するのが仕事。
みんなリスクを背負って仕事していることでしょう。
すべて自分に返ってくるとか、リスクの大きさに見合った報酬を受け取っているから続けられるとか。
しかし、プロではない評論家もたくさんいますね。評論家気取りの人たち。
匿名であることを盾にネット上で(有名無名問わず)個人を徹底的に痛めつけるとか
内輪だけでウケたくてテレビで見聞きした評論家の言動を真似して、
それまで大して気にもしていなかった有名スポーツ選手や芸能人をこき下ろしている人とか、
成功者の活躍が気に入らなくて批判を繰り返し、
それを指摘されると「自分の意見も言えないのか」と被害者面して憤って見せる人とか。
物事に対して正しい批判は必要です。
「悪いことはしてはいけない」とか、「そうは言ってもあの状況では仕方ない」とか。
他人には理解してもらえない自分の意見を主張することもありますね。
言葉で表現することは不自然なことではありません。
でも、私は評論家にはなりたいと思ったことはこれまで一度もない。
自分の行動に対するアドバイスは参考にするけど、評論家に左右されることはない。
自分は平気で他人を傷つける間違った評論家のようなことは決してしないようにしよう。
20歳頃に北欧の作曲家ジャン・シベリウスのこの言葉を聞いてから、
その思いはより強く、そして明確なものになりました。
there has never been set up
a statue in honor of a critic.
評論家の銅像は作られたことがない。
本当は世界中の誰もがそう思っているはず。
自分が信じた行動に周囲が批判的な意見を浴びせてきたとしても、
いつも拠り所となるこの言葉で心を落ち着かせる。
私にとっては一生忘れることがない名言です。