【内海桂子】1945年頃はキャバレーで英語で芸を見せていた
浅草で育った日本の芸人、漫才師、女優。
1922年9月12日生まれ
本名は安藤良子(あんどうよしこ)
漫才協会名誉会長。
元横浜放送映画専門学院(現 日本映画大学)専任講師。
俳優志望だった横浜放送映画専門学院在学中のウッチャンナンチャンに漫才転向を勧め、事務所の後輩としたため事実上の弟子。
漫才コンビの笑組(えぐみ)やナイツらは直弟子。
毎日肉を食べ、ビールを飲む。
毎日よく眠れる。睡眠時間が9時間ほどになることもあるくらいぐっすり眠れる。
1938年頃、16歳で漫才を始める。
1945年頃キャバレーで働いていた時、アメリカ人を相手にジルバを踊ったり、英語で芸を見せていた。
1950年、弟子の内海好江(うつみよしえ 本名は奥田好江 1936〜1997)と漫才コンビ内海桂子・好江(1950〜97)を組み、約半世紀もの長きに渡り活躍した。
1982年度、芸術選奨文部大臣賞授賞。漫才としては初の栄誉。
1989年 紫綬褒章受章。
1998年、漫才協団の会長に就任。
東京演芸界を率いており、ナイツやロケット団ら協会所属の若手の舞台に客演したり、デーブ・スペクターらと余興で漫才をすることもある。
1999年、77歳の時マネージャーの成田常也氏と結婚。
2005年、漫才協団が社団法人漫才協会になり、同協会会長に就任。
2007年、漫才協会会長職を青空球児に譲り、名誉会長となる。
自身も最古参の現役ピン芸人として都々逸や漫談などで活躍中。
他の出演者と即興で10分近くも掛け合いをしたり、「ジャパニーズ・ダンス」と英語の口上で寄席の踊り「奴さん(やっこさん)」を踊るなど、東京・浅草の演芸場を沸かせている。
弱音をはかない性格で、階段から落ちて右手を骨折して以降、自身の都都逸などの筆書きは左手で行っている。
自身曰く、
「英語は今でも出来る」
「相手が主張さえしてくれれば、ツッコミを入れられるから誰とでも漫才できる。」
「自分の経験が今、全部芸になってんのよ。」
「100歳以上の人が4万人いる。その人達も分かる漫才が必要。」
(日本における100歳以上の人口は2012年に5万人を突破している)
ツイッターを始めており、2012年10月現在、フォロワーは67000人を超えている。パソコンへの打ち込みは夫でありマネージャーの成田常也氏が担当し、定期的に更新している。2012年10月9日のツイート「いじめで自殺し母親に殴り殺されたりと悲惨な子供の死が続いて今日は救急車が来ず大学生が死亡したとか。どうして怒鳴ってでも自分の気持ちを伝えなかったのか。とも思ったがものを言わない生活に慣れたら急には喋れないというのは本当かもしれない。もっと喋りましょう。メールだけじゃ静か過ぎます。」は反響を呼んだ。
漫才のほか、三味線、踊り、映画なドラマなどの女優業、トーク番組やバラエティ番組のタレント業、レポーター、コメンテーター、講演会講師、映画学校の演劇科講師を務めるなど、多方面で活躍中。