【宮澤喜一】政界随一と謳われたほどの英語力は独学で身につけた

第78代内閣総理大臣。

 

1919年〜2007年

 

「政界随一」と謳われたほどの英語力の持ち主

 

一貫して親米派・日米同盟論者だった。

 

ラジオパーソナリティやテレビタレントとして活躍中のラフルアー宮澤エマさんは、
長女の啓子さんとアメリカ人の夫との間に生まれた孫娘。

 

 

 

 

1919年(大正8年)、東京市に生まれる 本籍地は広島県福山市。

 

1936年(昭和11年)、旧制武蔵高等学校高等科文科甲類(文系英語クラス)入学。

 

1939年(昭和14年)、旧制武蔵高等学校高等科文科首席卒業、東京帝国大学法学部政治学科入学。

 

1941年(昭和16年)12月、東京帝国大学法学部政治学科卒業。

 

1991年(平成3年)11月、自民党総裁、内閣総理大臣。
任期は1991年11月5日〜1993年8月9日。

 

2003年(平成15年)11月、政界引退。

 

2007年6月、私邸で死去。

 

 

英語力が高かったことが有名だが、海外留学や英語の専門教育を受けた経験などはなく、独学で身につけた。きっかけは、東大在学中に渡米した時、学んだ英語がほとんど使い物にならなかったため。戦時中の「英語は敵性語」とみなされていた時も、手に入る洋書や英字誌を読んでいた。

 

戦後はGHQと交渉ができる大蔵官僚として多忙の日々が続き、毎日英語を使っていた。

 

議員会館の食堂やロビーでも英字新聞や英字誌を常に読んでいた。

 

外国首脳や大臣との会談では、外交プロトコル上かならず通訳を同席させることが規則だが、英語圏の首脳とは通訳を待たずに直接話し、会話を主導していた。

 

当時のクリントン大統領は宮澤と会談した時、対応ぶりを賞賛している。

 

通訳者の誤訳はすぐに訂正するなど、時に煙たがれる一面もあり、
宮澤を嫌う田中角栄に「英語屋」と呼ばれ、政治家ではなく単なる通訳者と見下されることもあった。

 

フランス語の重要性も痛感し、中年を過ぎてから学んだが、本人が満足するにはいたらなかったといわれている。

 

 

 

【その他のエピソード】
・毒舌家だった。

 

・酒癖が悪く、暴言を吐くことが多かったため、敵が多かった。

 

・政界関連で東大卒ではない人を馬鹿にすることが多かった。

 

・英語通だが東洋的思想を好んでいた。

 

・サッカー好き。日韓W杯招致国会議員連盟の議員会長だった。

 

・葬儀は日本武道館で行われた。(内閣・自由民主党合同葬)

 

・家では孫から「グラン・ダッド」と呼ばれていた。

 

・家でイクラとチーズをご飯にのせて食べるとおいしいと言っていた。

 

・週に一回は一家揃ってディナーをしていた。

 

・家族には「自由は大事。経済力がないと自由にはなれない」と教えていた。

 

 

 

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