【ジョン万次郎】英語を習得し、アメリカ史に初めて名を残した

【ジョン万次郎】英語を習得し、アメリカ史に初めて名を残した

1827年1月23日〜1898年

 

アメリカの歴史に初めて名を残した日本人。

 

アメリカの地を踏んだ最初の日本人

 

幕末の日本で日米和親条約の締結に大きくかかわった人。

 

英語を習得し、「ABCの歌」を日本にはじめて紹介したといわれる。

 

 

 

土佐の中浜の貧しい漁師の次男として誕生。ハーフではない。

 

9歳の時に父を亡くし、家族を支えるため近所のまき割りや草取り、魚を摂る網の修理や子守など様々な手伝いをしていたが報酬が微々たるものだった。

 

当時の土佐では漁師として船に乗り込めるのは15歳になってからだった。数え年で15歳になってすぐにアジ、サバ漁の船に乗り、初めての漁に出た。最初の2日間はまったく魚が取れず、3日目にやっと漁ができたが、強風にあおられ遭難。無人島「鳥島」に流された。
アホウドリなどを食べてなんとか生活していたところ、143日後、そこへウミガメやウミガメの卵の採取に来たアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号(乗組員5人)が島に近寄ってきた。万次郎は泳いで船に向かい、ホイット・フィールド船長に救助された。アホウドリの巣立ちが始まっていたので、発見が一週間遅れていたら餓死していた可能性が高いらしい。日本に向かわずそのまま航海を続けた。

 

翌日、船長に何かを命じられたが、まったく言葉が理解できなかったため、船長が黒板に島と着物の絵を描き語り掛け、島に残してきた身の回りのものを取りに行き、船に戻ってきた。この時の品物が、のちに彼らが日本人であることの証明になった。

 

これ以降、万次郎は相手の言葉を理解したいときに黒板に絵を描いてコミュニケーションをとった。

 

万次郎以外の4人は外国人になじめず、与えられた靴も履かず部屋に閉じこもっていたが、最年少の万次郎だけはいつも笑顔で船内を歩き回り、手の空いた船員を見つけては身振り手振りで会話しようとしていた。言葉を教えてもらうお礼に、食器洗いや甲板掃除など、山のようにあった雑用を中心に船員の仕事を手伝った。当時の日本は身分が違えば言葉をかけあうことがなかったが、船長をはじめ乗組員たちは "Thank you, Manjiro" と声をかけ、万次郎はそのことに驚いていた。やがてジョン・ホーランド号のマスコットボーイのような存在になり、「ジョンマン」と呼ばれるようになった。

 

 

あるとき、航海中の見張りを任されていた時、くじらを見つけた。そのくじらを捕獲できた夜、功績をたたえられ乗組員に仲間として認められた。その様子を見て船長は、万次郎の適応力を認めアメリカの教育を受けさせようと思った。

 

ハワイ沖に着いた時、中国に向かう船に乗り換えるか、このままジョン・ホーランド号に残るか選択しなければならなかったが、ホイット・フィールド船長の誘いの前にアメリカの文化を学びたいと万次郎自ら残ることを決意。アメリカ本土に渡った。

 

 

ホイット・フィールド船長の養子なりマサチューセッツ州で生活。南北戦争の前だったので、万次郎に対する人種差別やイジメのようなものもあったと思われるが、万次郎は「自分で変えられないことは仕方ない」と、何を言われても気にしない態度を取っていたといわれている。

 

日本では教育を受けていなかったため文字の読み書きができなかったが、アメリカではオックスフォードスクールという私塾に通わせてもらい勉強した。

 

その後、バートレット専門学校に進学し、英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学び首席で卒業。

 

フランクリン号という捕鯨船に乗り航海にでた時、太平洋の島国がことごとく欧米諸国の領土になっていたことに衝撃を受けると同時に、鎖国政策をとる日本に対する批判を耳にした。世界が産業革命で進化を遂げる中、日本が無意味な鎖国政策を続けていたら、どこかの植民地になってしまうと思い、日本に帰国し世界の現状を伝える必要があると思うようになった。

 

旅費を工面するため、金山が見つかりゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに向かい、そこで600ドル分の金を手に入れた。すぐにハワイ行きの貨物船と交渉しホノルルに向かう。ホノルルでかつて遭難した漁なかまと出会い、上海行きの船に乗船。上海ちかくからはホノルルで購入したボート(アドベンチャー号)に乗り、薩摩藩領の琉球に到着。遭難から10年が経っていた。那覇から薩摩におくられ藩主の取り調べを受けた。その後長崎に送られ18回の取り調べを受けたが薩摩藩主の「将来日本のためになるので粗末に扱わないように」という内容の手紙のおかげもあり無罪となって無事に土佐に戻った。さらに取り調べを受けたが、この時万次郎が話したアメリカの文化はすぐに本にまとめられ、多くの人に興味を持たれた。坂本龍馬も読んだこの本は、日本人の目を海外に向けさせたきっかけになったと言われている。

 

 

 

 

遭難してから11年10ヵ月ぶりに母親とも再会。

 

万次郎が帰国した翌年にペリーが浦賀沖に来航。

 

 

 

幕府から声がかかり、通訳や翻訳、軍艦の造船指揮、教師もした。この頃から中浜万次郎と名乗っていた。明治の政治家後藤象二郎や三菱の創業者である岩崎弥太郎らは直接指導している。英語に関しては、現在で言うところの東京大学の英語の教授に相当するような立場だったこともある。

 

 

幕府に命じられて作った英米対話捷径(えいべいたいわしょうけい)が日本初の英会話本。

 

 

 

1860年、日米修好通商条約を無図ぶため、幕府が派遣した使節団の一員として艦長の勝海舟や福沢諭吉らとアメリカに渡った。

 

1870年、ヨーロッパに派遣され、ニューヨークにも滞在する機会があり、その時にフェアヘイブンに行きホイット・フィールド船長と20年ぶりに再会している・帰国後に脳溢血でたおれ、それ以後は静かに暮らしていた。

 

1898年、71歳の時に脳溢血で死去。東京でなくなった。夏目漱石もいる雑司ヶ谷の霊園に墓がある。

 

1929年、ジョン万次郎記念碑が完成。

 

1968年、足摺岬に万次郎の銅像が建立される。

 

1991年、ジョン万次郎漂流から150年目。「ジョン・万を越える会」が発足。

 

2002年、万次郎帰郷150周年記念として中浜万次郎生誕地記念碑が完成。

 

2006年、海の駅あしずりに「ジョン万ハウス」移転オープン。

 

2011年、ジョン万次郎資料館リニューアルオープン。

 

 

 

 

 

勝海舟のボディーガードだった岡田以蔵は、のちに勝海舟の紹介で万次郎のボディガードになっている。アメリカ生活が長かった万次郎はアメリカのスパイだと思われることもあり、襲われることもあったが、岡田以蔵が助けている。

 

 

第30代アメリカ大統領のカルビン・クーリッジ(1872年7月4日 - 1933年1月5日 在位1923年8月3日から1929年3月4日)が「ジョン万次郎はアメリカが日本に送り込んだ初代駐日大使に等しい人物である」と語っている。

 

 

 

 

英語を全て耳で覚えたといわれる万次郎が記述した英語辞典の発音法の一例に、

 

「わら」 = 「water」(水)

 

「さんれぃ」「しんれぃ」 = 「Sunday」(日曜日)

 

「にゅうよぅ」 = 「New York」(ニューヨーク)

 

「しゃま」 = 「summer」(夏)

 

「きゃあ」 = 「cat」(猫)

 

「あっぷ」 = (「sky」「空」を「up」と勘違いしていた)

 

などがある。

 

「空」を "sky" ではなく "up" と勘違いしたのは、
上(空)を指差して「あれは何か?」とたずねた時、
指の動きに対して "up" と答えた人がいたからではないかと
考えられている。

 

 

現在の英米人に万次郎の発音辞典の通りに話すと、
「正しい発音に近い、早口の英語」ととらえるという実験結果があるらしい。

 

ジョン万次郎の生涯を80問にまとめた「ジョン万検定(ジョン万次郎検定)」というものがあり、インターネットで受験できる。

 

2013年4月、土佐にあるジョン万次郎資料館の名誉館長にタレントのビビる大木さんが就任。
「ジョン万次郎さんのスゴさを全国に届けるお手伝いさせて頂けるこの幸せ。。土佐清水市民の皆様、高知県民の皆様、お世話になります。万次郎先生―っ!!」と地元紙と市の広報「とさしみず」にコメントを寄せている。

 

 

 

【ビビる大木さんの話】
墓参りに行ったとき、なんとなく万次郎がシャイな人だったのではと思い、子孫の方と面会した時に尋ねたら「シャイな人だったのではないかと思う」と返された。

 

中の浜出身だから中浜万次郎と名乗ったが、漁にでたのは現在の土佐清水の隣にある宇佐という町から。アルファベットで書くとアメリカ合衆国を表すUSAとなることから因縁を感じる。

 

ゴールドラッシュの時に行った金山でジーンズを見ているはず。白洲次郎より先にジーンズをはいているかもしれない。

 

コーヒーを最初に飲んだ日本人。

 

後に万次郎の子孫が遭難当時の黒潮の流れを研究しており、万次郎が遭難した日に特殊な海流が起こっていたことを突き止めている。その季節ではめったにない黒潮の流れがあったため、鳥島に流れ着いた。通常の海流だった場合、どの島にも流れ着かず、漂流して死んでしまったのではないかと考えられている。

 

万次郎の子孫とホイット・フィールド船長の子孫は今でも交流が続いていて、年に1回必ず会っている。2013年は黒船で浦賀沖に来たペリーの子孫も一緒に集まった。

 

 

 

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